EXISTENCE / SHIN’ICHI ISOHATA guitar solo & duo with OTOMO YOSHIHIDE

磯端伸一 with 大友良英

EXISTENCE / SHIN’ICHI ISOHATA guitar solo & duo with OTOMO YOSHIHIDE

¥2,300(税込)

Jigen-008    2013年作品

超個性派ギタリスト・磯端伸一が紡ぎ出すシンプルな抽象と暖かな記憶による存在へのリスペクト。

大友良英とのデュオを含む23の小品集 !!

1. 鏡の子供… a child in mirror        3:09
2. 斑猫… tiger beetle             1:41
3. duo untitled 1               2:14
4. 夕立… shower                 2:34
5. 鰍… “kajika” japanese fluvial sculpin    1:39
6. 晩夏… late summer              1:59
7. duo untitled 2                3:50
8. 小妖精… two elves              2:47
9. 絣… “Kasuri” splashed-pattern        1:07
10. duo untitled 3                 3:09
11. 綿飴… cotton candy              1:46
12. 影絵… sunset line around a hill       2:46
13. duo untitled 4                1:48
14. 街灯… streetlight              1:53
15. 鰯雲… cirrocumulus              2:42
16. びいどろ… vidro               0:36
17. duo untitled 5                 2:44
18. ほたるぶくろ… bellflower           1:15
19. 真鍮…brass                   2:56
20. 優しい午後… calm afternoon           3:11
21. 海と坂道…sloping road with sea view       2:44
22. 鱗粉… butterfly scales             1:22
23. duo untitled 6                  2:25
24. 月下美人… queen of the night          1:20

 

all tracks improvisation by SHIN’ICHI ISOHATA
and duo improvisation with OTOMO YOSHIHIDE(3.7.10.13.17.23)

recorded by Owa Katsunori at Studio You Osaka 1/16~2/10/2013
edited and mixed by Miyamoto Takashi
mastered by Owa Katsunori at Studio You 3/18/2013
cover art by Kotani Hiroyo

produced by Miyamoto Takashi

「EXISTENCE / SHIN’ICHI ISOHATA guitar solo & duo with OTOMO YOSHIHIDE に寄せて

音を聴いただけでそれが誰の演奏か判るミュージシャンがいる。
磯端伸一とは正にそのような個性を持つギタリストである。その微音を駆使した不思議なサウンド、美しく、しかもどこか理知的で整合感に溢れた即興演奏に私は魅了され続けてきた。同時に彼がその個性的なスタイルを獲得するに至った経緯についても多大な関心を寄せていた。

大阪本町の外れに位置するシェ・ドゥーブルというカフェがある。オーナーである版画作家、小谷廣代は、奥に10畳くらいのギャラリースペースを設け、さまざまなアート作品の展示を催している。そしてこの狭いスペースはギタリスト磯端伸一の活動拠点でもあるのだ。
この一見、普通のカフェが、奥を覗き込むと、そこに眩いばかりの美に満ちた音楽世界が繰り広げられている。僅かな情報に接した少人数のオーディエンスが彼の小さなギター音に聴き入るように体感する音楽。通常のコンサートとは異なる正に‘体験的’な鑑賞の場という様相を磯端伸一のライブは示してきた。
磯端自身の言葉を借りよう。
「シェ・ドゥーブルはまるで小谷さん自身の作品でもあるかのようなカフェであり、その奥にはオブジェのようなエントランスが私達を迎え入れてくれる白いギャラリーという2つの貌を持っています。そしてそこは常に美術系アーティストのエキシビションの場でもあるので、しばしば偶然のコラボレーションが成立することもあり、また意識するしないに関係なくオーディエンス側もイメージの融和を体感することになります。」

磯端のライブは多くがソロ演奏である。そして時折、国内外の様々な共演者と共に行われる彼の演奏に私は即興音楽の持つ可能性を感じてきた。即ち、即興演奏というものが得てして演奏者の内部吐露の形式をとる激情の表現となる事を彼は避け、むしろ空間の中へ自己を投げ出すような、音楽の在り方を示す可能性について示唆されたのだ。彼の演奏からは音楽の解釈の多様性と共に、周りに在る様々な存在と共存するような客体的存在感をイメージさせる何かがある。しかもそれは何かしらのコンセプトを背景としたBGMやアンビエントというそれ自体が目的に徹した音楽スタイルには収まらないものだ。
シェ・ドゥーブルという、いみじくもアートの在るスペースが磯端伸一の拠点であった。そこにはいつも違う展示物がある。あるいは何もない時もある。あくまでもその時々の偶然性によって磯端伸一の音は他の何かとリンクしてきた。意図するわけではなく、そこにあったにすぎないアート作品との偶然的出会いである。そんな共存、あるいはサウンドのみの空間がいずれも磯端伸一の即興音楽のリアルタイムな動き、色、強度を変化させてきた事を私は感じてきた。

磯端伸一、1962年、大阪市出身。
12歳のころからギターを始め、時を移さずジャズに傾倒する。上京して高柳昌行スクールの生徒になるのは1985年。基礎練習やフォームの重要性、クラシックの教則本を使った運指、ピッキングのトレーニングや高柳氏のその独自のサウンドと音楽論によって彼はそれまでの音楽の概念を覆される経験をする。その後の磯端伸一の歩みはオリジナルなスタイルの獲得への道程となっていく。様々なプリペアドを施し、弦の響きを多様化させる試み、弓を使う奏法(ノイジーにだけではなく、あくまでも旋律的に)、ハーモニクスによる音階表現などに私は、彼が他のどんなギタリストにも類似しない超個性派の姿を見る。
しかしその個性はやみくもに出来上がったものではなく、高柳氏の下で学んだ弛みなき基礎技術の鍛練と、カテゴリーに縛られることなく音楽を歴史的に俯瞰し、アナリーゼし続ける過程において徐々に熟成されてきたものである。

私は彼に常々、「磯端さんの音楽は即興音楽という狭いジャンルを超えて、どこでも誰でも聴ける音楽になりえると思う」と言ってきた。強制と非強制、アンビエントとエンターティメント、そんな様々な対立的な空間のぎりぎりの境界線上に立つ音楽だと思っている。濃密でありながら、耳触りがよく、基底的でありながら、浮遊するような音響世界を持ち、しかもポピュラー的でさえある。磯端伸一にそんなギターミュージックの新たな地平を見た私は、彼の音楽をもっと外へ広げていきたいと思った。それがこのアルバム制作の動機でもあった。この作品に於けるソロのトラックについて彼は‘知覚イメージからモチーフを得たシンプル、シリアス、そしてリリカルなインプロヴィゼーション小品集’であると説明してくれた。

また、磯端伸一は‘アブストラクト’を標榜している。その‘アブストラクト=抽象’とはフリージャズの‘フリー=自由’や、アヴァンギャルド=前衛、とは異なる概念だが、私はその定義について彼に説明を求めた。自身の説明をここで記しておこう。

<アブストラクトについては、芸術用語として考えると非常に難しい解釈になるのでしょうが、自分の中では座右の銘、そして自戒でもある「あらゆる存在を尊んでいく」という言葉に帰結します。私たちは服や物を選ぶ際、「抽象的」な形・模様などの商品であっても、特に意識せずに好きなものを選んでいるように、人は対象が抽象的であろうとなかろうと自身の感覚によって既に取り入れています。私の音楽もそうありたいと願います。価値観の垣根さえ取り払ってしまえば、私の音楽に内在する「抽象的」な要素も日常にあふれるデザインのように感じてもらえるのではないかなという希望を持っています。いろいろなものを楽しめることが私には「汎音楽」、さらに「あらゆる存在を尊んでいく」へと繋がっているのです。
また、私はギターを始めた頃からジャズという音楽に魅了され、これからもずっと関わっていくでしょうが、それについても楽理だけではなく自分の中に混在する様々な要素(音楽だけではなく)がミックスされメタモルフォーゼされた演奏ができるよう、楽しみながら精進していこうと思います。」

「汎音楽」という言葉が出たが、これは高柳昌行スクールで磯端が学習した‘物事を観てゆく姿勢’の事を指し、その見地に立つと、音楽表現においても、音楽以外のあらゆるマテリアル(社会、科学、テクノロジー、現代思想etc..)のフィルターを通過する事による独自性と普遍性に向かうようになる。あらゆる‘情報’を介在させた全的表現とでも言おうか、そんな感性のボーダーレスを表現者と鑑賞者か共有する精神の事でもあると感じる。

磯端伸一の作品を制作するにあたり、私はソロに加えて複数のゲストとのデュオを提案したが、磯端はデュオは大友良英氏とのみを希望したのでそれに従った。そして私達が超多忙な大友氏のOKの返事に心から謝意を表したのは言うまでもない。
磯端曰く「今の自分の音楽が最も自然に、そして自由にコラボレートできるミュージシャンは大友さんであることは前回の共演でも分かっていました。過去の一時期を共有し、価値観にも少なからず共感できるということもありますが、大友さんの持つ音楽家、演奏家としてのずば抜けた感性の中に自分自身が再び入っていきたかったという想いがずっとあり、今回そのことはレコーディングでもライヴでも再確認され、大友さんと瞬間々々のサウンドを創っていく楽しさは他では味わい難く、凄さ以上に本当に良いミュージシャンだなぁと実感しています。」

二人を結びつけるもの、それは両者が共に高柳昌行スクールの門下生同士であった事である。とは言え、同門であった80年代半ばから2005年の再会まで二人の交流は途絶えていた。その経緯については2009年に限定枚数でリリースされたアルバム「Isohata Shin’ichi × Otomo Yoshihide Guitar Duo× Solo」(GRID605)のライナーノーツの中で大友氏が自ら明かしている。当時、磯端の先輩であった大友氏は病気がちであった高柳氏の代行として時折、後輩の指導にあたる事もあり、生徒の募集、教室の運営、その他、高柳氏の手足となって活動していた。(それどころか高柳氏のaction directと呼ばれる多数の機材を使用するノイズパフォーマンスにおけるサウンドシステムの構築に深く関与しており、メカニック担当という意味でも当時の高柳氏の音楽活動に大きく貢献していた)

様々な経緯を経て、二人が久しぶりに再会、そして共演したのが2005年。
その時に聴いた大友氏のターンテーブルの演奏は磯端に大きな感動を与えたという。その後神戸での共演、東京でのデュオによるライブが実現し、アルバム「Isohata Shin’ichi × Otomo Yoshihide Guitar Duo× Solo」に結実する。

2013年、2月12日、二人は2005年の共演以来の再共演を果たし、レコーディングに臨んだ。同じ日の夜はシェ・ドゥーブルでライブもやるという強行スケジュールであった。再会した二人の演奏、その高度なインタープレイは約8年ぶりというインターバルを感じさせない濃密なものとなり、阿吽の呼吸とでもいうべき、一体感を生んでいた。自前の打ち合わせは一切なく、やり直しやオーバーダビングなどは一切していない一発録りであり、結果、本作に6つのトラックが収録された。

磯端伸一のアルバム「EXISTENCE / SHIN’ICHI ISOHATA guitar solo & duo with OTOMO YOSHIHIDE」がここに完成した。一つ一つのトラックがあたかも小宇宙のような完結性を持ち、且つ,各々が連動している。それは彼がシェ・ドゥーブルを拠点として継続している”EXISTENCE”と命名されたライフワークの反映のようにも映る。曰く「このシリーズは私自身と、音楽も含めた他のアーティストとの、お互いの知覚(五感)イメージがフューズされる時に出現する一刹那の時空を、表現者も鑑賞者もパーソナルな感性で楽しむささやかなイベントです」という。
この作品は磯端伸一の活動の重要な‘一通過点’となるだろう。

2013.3.31.  宮本 隆(時弦プロダクション)

<磯端伸一 プロフィール>
1962年大阪府出身。12歳の頃よりギターを弾き始める。同時期にジャズのハーモニーやアドリヴに魅かれて、ギターの技術とベーシックな音楽理論を独学で習得。1982年から’85年まで東京でティム・ドナヒューにフレットレス・ギターとジャズ理論を学ぶ。1985年から高柳昌行氏に師事、高柳氏の私塾にて氏の亡くなる1991年まで楽器の基礎技術を矯正習得し、高柳氏の音楽美学と哲学を学ぶ。1994年より兵庫県在住。
感覚イメージと独自の理論から構成されるギター・ミュージックは、デリケートで静謐な響き、透明な音色、日本的な「間・余白」などに勤しむ。
1996年から始めた主に他分野のアーティストとのコラボレーションでもあるライフワーク、series “EXISTENCE” は美的共有を目指し継続されている。

otomo (17)

 

磯端伸一&大友良英 live at chef-d’oeuvre Osaka 2013/2/10

 

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高柳昌行が没してからはや22年になる。彼の日本のジャズ・シーンに於ける功績の大きさは疑い様はないが、関わった人々には様々なアンビバレントな感情をもたらすのもまた事実である。それは常に真摯にジャズ・即興音楽表現の在り方を自問自答する求道者であり、それを次世代に伝える良き教育者である一方で、その余りに厳格で卓越した自意識と痛烈な批判意識・闘争精神が同時代のシーンに「痛み」を与えざるを得なかった、という両義性に依るものであろう。とくに高柳の私塾で直々に指導を受けた「門下生」と呼ばれる演奏家にとっては、高柳は敬うべき師匠であり、超えなければならない壁であり、批判すべき対象であった。具体的な教育方針・方法に関しては語られることはないが、高柳に近づけば近づくほど相反する感情の落差が増すようである。
大阪出身のギタリスト磯端伸一は1985年から高柳昌行スクールで学び、それまでの音楽の概念を覆される経験をしたという。先輩に教室の運営・高柳の演奏スタッフを務めた大友良英がいる。教室運営や演奏会コーディネートを担うほど高柳と親密な師弟関係を結びつつ、後に反発し現在は当時の経験を「怖い教室」とジョーク交じりに語る大友に対して、磯端は教室では目立たぬものの丁寧に講義をノートに取る真面目な生徒だったという。
お互い同門の演奏家でありながら、17年間交流が途絶えていた大友良英とは、2005年に再会し京都と東京で共演を果たした。東京での演奏が2009年に『Isohata Shin’ichi × Otomo Yoshihide Guitar Duo× Solo』として限定リリースされた。解説書で大友は、高柳のもとを飛び出した自分と、教室に残った磯端との心のわだかまりと誤解が氷解したこの再会について思いを綴っている。
それから8年経ち、ベース奏者でもあるプロデューサーの宮本隆の提案により録音されたのが本CDである。
大阪で版画作家、小谷廣代が経営するアート・カフェ、シェ・ドゥーブルを拠点に活動する磯端は、毎日7時間以上の練習を欠かさぬ求道家であり、シェ・ドゥーブルに併設されたギャラリーのアート作品に囲まれたスペースで、ソロを中心とする即興演奏を「EXISTENCE」と題したシリーズで続けている。その記録として制作された本CDには、宮本は複数のゲストを提案したが、磯端の意向で大友ひとりを迎えてレコーディングされた。
小谷廣代による抽象的ながら記憶の奥のデジャヴ感を喚起するアートワークに包まれて提示された24の小品集。ソロ演奏の18曲には磯端自身による表題が付けられており、アブストラクトな演奏に意味性を与えイメージを広げる。
細い糸の上を爪先立ちで進むような張り詰めた緊張感が全編を通して貫かれており、磯端の卓越したテクニックと高い抽象化作用が漲っている。感情よりもクールな即物性の高い音響は、高柳がしばしば言及したレニー・トリスターノに通じる。アコースティック・ギターを中心にヴォリューム奏法や弓弾きなどを駆使した演奏は、ジョン・ケージのプリペアド・ピアノを思わせる1・16、アンビエントな11・15、詩情あふれるアルペジオの4・8など様々な表情を見せる。驚くのはすべてオーバーダブなしで録音されたということである。タイムディレイを使った12・15・20や、特に右手で弓を使いながら左手はネックの弦を指で叩く奏法による2・18・24は磯端以外にはなし得ない個性的な演奏法である。実際に生演奏を観てみたいものだ。
6曲収録された大友とのデュオには表題はない。具体的なタイトルはあくまで磯端自身の演奏にのみ付けるべきであり、他者との交感による演奏は別個の世界だからであろう。同じ高柳理論の実践に於いて方法論は真逆といえる両者の演奏だが、ノイジーな音色で空間を引き裂く大友と澄んだ音響が拡散する磯端のフレーズが絡み合うことで醸し出される緊張と同時に意外なほどの親和性には、「暫時投射」と「集団投射」に象徴される高柳理論の核のひとつ、相反する要素の共存・同時性に基づいているように思える。90分以上の音源ソースから磯端自身が抜粋したものだが、次第に両者が近づき、最後の23では区別のつかない音色にメタモルフォーゼするのが面白い。
大阪というローカル・シーンに根ざした真にインディペンデントなアート作品であり、比類なき才能を世に知らしめるCDである。一人でも多くの音楽ファンにお聴きいただきたい。(2013年6月15日記 剛田武)
剛田 武(ごうだ・たけし)
1962年千葉県船橋市生まれ。東京大学文学部卒。レコード会社勤務。
ブログ「A Challenge To Fate

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